相続の相談でいちばん多い失敗は、
「税理士に行ったら登記の話ができず、司法書士に行ったら税金が分からない」ことです。
(論点)謝られたら、許さないとだめなのか?

「謝られたら許さなければならないか?」という問いは、倫理的、心理的、社会的な側面から深く考察できる問題です。この問いには明確な正解があるわけではなく、状況や個々の価値観、社会の文化的背景により結論は異なります。しかし、許すか許さないかの判断はこちら側にある訳で、自由だとも考えますが・・・。
目次
1. 倫理的観点
2. 心理的観点
3. 社会的・文化的観点
4. 法律的観点
5. 結論
1. 倫理的観点

倫理的に考えると、謝罪を受け入れることは道徳的な行為とみなされることが多いです。許すことは、相手に対する寛容さや共感を示す行為であり、個人の道徳的成熟や人間関係の修復を可能にします。多くの宗教や哲学において、許しは高い価値を持つ行為とされ、怒りや恨みを手放し、心の平穏を取り戻す手段ともされています。これにより、許しは自分自身のためにもなると考えられます。建前的にはね。
一度蹂躙された人権的なものについて、回復なんてできません。特に大人数の前で蹂躙して、裏で謝っても、表の人たちは蹂躙されている状態しか認知していないわけですしね。右のほほをぶたれて、左のほほを差し出すほど人間出来ている人、少ないと思います。
2. 心理的観点

心理学的には、許すことは心の健康に寄与する一方で、無理に許すことがかえって心の負担となる場合もあります。許しが強要されると、被害者が自分の感情を抑え込み、結果としてトラウマやストレスを抱える可能性があります。謝罪を受けた側が、その謝罪が誠実であると感じた場合には許しやすくなりますが、謝罪が表面的であったり、行動の改善が見られない場合には、許しが困難になることもあります。心理的な視点からは、自分自身の感情に正直であることが重要であり、無理に許す必要はないとされています。
3. 社会的・文化的観点
社会や文化によっても、許しの価値観は異なります。ある社会では、謝罪が行われた場合、それを受け入れることが義務とされる場合もありますが、他の文化では、謝罪が必ずしも許しを意味しない場合もあります。例えば、日本のような集団主義的な文化では、調和を保つために許しが奨励されることが多いです。一方、個人主義的な文化では、自分の感情や権利を重視し、無理に許すことが避けられる場合もあります。
4. 法律的観点
法律的には、謝罪は責任を認める行為とされることがあり、特に裁判においてはその意味合いが重要です。しかし、謝罪がなされたからといって、法的な責任が消えるわけではありません。被害者が謝罪を受け入れるかどうかは個人の判断に委ねられており、許しが法的義務であるとは限りません。
例えば私の場合ですが、事務所を立ち上げる際に「事務所の賃貸借契約の保証人」に親族がなってくれず危うく開業を妨害されそうになりました。あとで謝られても、その時に逸失した利益は戻りませんからね。当然、今後、事務所から上がる利益については、遺言書を作成し、一切関与させないように手は打ちましたが。
「お前は宝くじを買わなかったんだよ。買わない宝くじは、外れるというリスクはないが、当たることもないのだよ。」それを謝罪で無いようにはできないよね。
5. 結論
結論として、「謝られたら許さなければならない」という問いに対する答えは一律ではなく、個々の状況や価値観、文化的背景によって異なります。倫理的には許しは望ましい行為とされますが、心理的な健康や自己の感情に対する正直さも重要です。また、社会や文化によっては許しの意味合いが異なるため、その点も考慮する必要があります。最終的には、謝罪を受けた側が自分の感情や状況を考慮して決断することが求められます。無理に許すのではなく、自分自身が納得できる形で対応することが、長期的な心の平穏を保つためには重要です。

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